Chef

Zazhigalkin Alexander

Hello, my name is Zazygalkin Aleksandr. I am a Russian chef whose roots are tied to Japan.
I was born in 1982 in Ozhorsky, a small village surrounded by the sea in Sakhalin Oblast, Russia.I lived in Ukraine for a while when I was a child, but until 2010 I lived in Sakhalin.
My passion for cooking developed as a child with the help of my mother, and in 1998 I studied cooking at a culinary school in Sakhalin. After my first internship at Toyohara, a Japanese restaurant in Yuzhno-Sakhalinsk, I gained experience working at various restaurants. I began dreaming of one day starting my own business through cooking, and in 2005 I began studying at a commercial school.

I'm proud of the long journey I've come so far. My life is a continuous effort to improve myself and achieve my goals.
We believe that even though languages ​​and cultures may differ, truly delicious food can reach across borders. I look forward to sharing the flavors of my home country's cuisine with you in this wonderful country of Japan.

ザジガルキン家の歴史 (『樺太に生きたロシア人』より抜粋)

富農絶滅を逃れて ー ザジガルキン家

1990年の初め、私(著者)はトロフィーム・ヴァシリエヴィチ・エフィーモフとともに、コルサコフ地区にあるオジョールスキー・ポショーロク(長浜)に向かった。ここには当時、サハリンの古参移民ザジガルキン一族の子孫、フョードル・ペトロヴィチが住んでいた。
 フョードル・ペトロヴィチは、1945年当時わずか9歳に過ぎなかったため、多くを語ることはできなかった。しかし彼は、父親の妹ザジガルキナ・クラーヴディヤ・エフスタフィエヴナがユジノ・サハリンスクに住んでいる、と教えてくれた。ふたりの関係者の話を引用する前に、サハリン州内務局の記録文書に当たっておこう。

Longtail boat in Thailand

富農絶滅を逃れて ー ザジガルキン家

1990年の初め、私(著者)はトロフィーム・ヴァシリエヴィチ・エフィーモフとともに、コルサコフ地区にあるオジョールスキー・ポショーロク(長浜)に向かった。ここには当時、サハリンの古参移民ザジガルキン一族の子孫、フョードル・ペトロヴィチが住んでいた。
 フョードル・ペトロヴィチは、1945年当時わずか9歳に過ぎなかったため、多くを語ることはできなかった。しかし彼は、父親の妹ザジガルキナ・クラーヴディヤ・エフスタフィエヴナがユジノ・サハリンスクに住んでいる、と教えてくれた。ふたりの関係者の話を引用する前に、サハリン州内務局の記録文書に当たっておこう。

サハリンにおけるザジガルキン一族の初代エフスターフィー・ヴラソヴィチは、1898年極東の農民の家に生まれた。十月革命の1年前に結婚した。
一家はカムチャツカ(半島)に住んでいた。半島で、子供たち、つまりピョートル、アガーフィヤ、アメーフリー、フェオドーシヤ、プラスコーヴィヤが生まれた。一家の長がリュウマチを思ったため、日本へ行って治療を受けることにした。
1925年、エフスターフィー・ヴラソヴィチは、ペトロパヴロフスクで自分と妻プラスコーヴィヤ・イサエヴナのヴィザ手続きを済ませた。
そして、この大家族は居所を離れ、北海道島の函館に住みついた。ここにはいくつかの温泉が湧き出ており、エフスターフィー・ヴラソヴィチは湯治に利用した。パンを焼き始め、市場で売って生活費を得た。
1932年、エフスターフィー・ウランヴィチは、南サハリンのある村に旧教徒の家族が住んでいる、という話を聞いた。同年、一家は樺太に移り、荒栗村の住民に加わった。
新たな土地で、ザジガルキン一家は馬1頭と雌牛1頭を買い求め、農業を営むようになった。エフスターフィー・ヴラソヴィチは、時々北海道や本州に行き商売をしていた。
長男ピョートル(1917年生れ)は、まだ独り身であった。父親は、知人の話から、東京にマクシーモフー家が住んでおり、同家に未婚の娘ダーリヤ(1915年生れ)がいると知った。1930年代の半ば、エフスターフィー・ヴラソヴィチは息子を連れて首都を訪れ、見合いをさせた。ピョートルは、妻帯者となって村に戻ってきた。

Longtail boat in Thailand

サハリンにおけるザジガルキン一族の初代エフスターフィー・ヴラソヴィチは、1898年極東の農民の家に生まれた。十月革命の1年前に結婚した。
一家はカムチャツカ(半島)に住んでいた。半島で、子供たち、つまりピョートル、アガーフィヤ、アメーフリー、フェオドーシヤ、プラスコーヴィヤが生まれた。一家の長がリュウマチを思ったため、日本へ行って治療を受けることにした。
1925年、エフスターフィー・ヴラソヴィチは、ペトロパヴロフスクで自分と妻プラスコーヴィヤ・イサエヴナのヴィザ手続きを済ませた。
そして、この大家族は居所を離れ、北海道島の函館に住みついた。ここにはいくつかの温泉が湧き出ており、エフスターフィー・ヴラソヴィチは湯治に利用した。パンを焼き始め、市場で売って生活費を得た。
1932年、エフスターフィー・ウランヴィチは、南サハリンのある村に旧教徒の家族が住んでいる、という話を聞いた。同年、一家は樺太に移り、荒栗村の住民に加わった。
新たな土地で、ザジガルキン一家は馬1頭と雌牛1頭を買い求め、農業を営むようになった。エフスターフィー・ヴラソヴィチは、時々北海道や本州に行き商売をしていた。
長男ピョートル(1917年生れ)は、まだ独り身であった。父親は、知人の話から、東京にマクシーモフー家が住んでおり、同家に未婚の娘ダーリヤ(1915年生れ)がいると知った。1930年代の半ば、エフスターフィー・ヴラソヴィチは息子を連れて首都を訪れ、見合いをさせた。ピョートルは、妻帯者となって村に戻ってきた。

ここで、彼の妻ダーリヤ・ダヴィドヴナの家族について、手短かに触れておこう。
1930年、マクシーモフの一家は富農(クラーク)絶滅を逃れ、サラートフ州から中国を経由して東京にやって来た。ここ日本の首都には、1920年からダーリヤの姉エカテリーナが、夫のシシキン・ヴァシーリー・ルキャノヴィチと住んでいたのである。シシキン夫妻は、衣料品と香水類を商っており、
ハルビン(吟)と樺太の泊居(現在のトマリ市)に店舗を構えていた。彼らは、親族が新しい土地に慣れるよう手を貸した。ダーリヤも商売を始め、ピョートル・ザジガルキンと結婚し南サハリンへ行くまで、商いに携わっていた。
1930年代の終りから 1940年代の初めにかけて、エフスターフィー・ヴラソヴィチの子供たち、アヌーフリー、フェオドーシヤ、それにプラスコーヴィヤが、満州へ移住した。1945年以降、彼らとの音信は途絶えた。
さて今度は、関係者たちが語る話の番である。


フョードル・ペトロヴィチ・ザジガルキン、1936年生れ、出生地荒村。
1994年以降、ハバロフスク地方ソールネチヌィ地区ベリョーゾヴィー村に在住。

Longtail boat in Thailand

ここで、彼の妻ダーリヤ・ダヴィドヴナの家族について、手短かに触れておこう。
1930年、マクシーモフの一家は富農(クラーク)絶滅を逃れ、サラートフ州から中国を経由して東京にやって来た。ここ日本の首都には、1920年からダーリヤの姉エカテリーナが、夫のシシキン・ヴァシーリー・ルキャノヴィチと住んでいたのである。シシキン夫妻は、衣料品と香水類を商っており、
ハルビン(吟)と樺太の泊居(現在のトマリ市)に店舗を構えていた。彼らは、親族が新しい土地に慣れるよう手を貸した。ダーリヤも商売を始め、ピョートル・ザジガルキンと結婚し南サハリンへ行くまで、商いに携わっていた。
1930年代の終りから 1940年代の初めにかけて、エフスターフィー・ヴラソヴィチの子供たち、アヌーフリー、フェオドーシヤ、それにプラスコーヴィヤが、満州へ移住した。1945年以降、彼らとの音信は途絶えた。
さて今度は、関係者たちが語る話の番である。


フョードル・ペトロヴィチ・ザジガルキン、1936年生れ、出生地荒村。
1994年以降、ハバロフスク地方ソールネチヌィ地区ベリョーゾヴィー村に在住。

数年前、エレメーイ・エフスタフィエヴィチは、母、兄ピョートル、甥たちの墓所を訪ねることにした。しかし、そこで目にしたのは開墾された土地ばかりであった・・・。
<参考文献>
セルゲイ・ペトロヴィチ・フェドルチューク著(1996)Русские на Карафуто(= 2004 板橋政樹訳『樺太に生きたロシア人-故郷と国家のはざまで-』日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」)

Longtail boat in Thailand

数年前、エレメーイ・エフスタフィエヴィチは、母、兄ピョートル、甥たちの墓所を訪ねることにした。しかし、そこで目にしたのは開墾された土地ばかりであった・・・。
<参考文献>
セルゲイ・ペトロヴィチ・フェドルチューク著(1996)Русские на Карафуто(= 2004 板橋政樹訳『樺太に生きたロシア人-故郷と国家のはざまで-』日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」)