Chef

Zazhigalkin Alexander

こんにちは、ザジガルキン アレクサンドルです。日本と縁のある先祖をルーツに持つ、ロシア人シェフです。
1982年にロシア、サハリン州のオジョールスキーという海に囲まれた小さな村で生まれた私は、幼少期に一時期ウクライナに住んだこともありますが、2010年まではサハリンで暮らしました。
子供の頃に母の手伝いによって料理への情熱が芽生え、1998年からサハリンの調理学校で調理を学びました。ユジノサハリンスク市の日本料理店「とよ原」で初めてインターンシップを経験した後、様々なレストランで働きながら経験を積みました。いつか料理で起業するという夢を持ち始め、2005年からは商業の専門学校で学びました。

2010年の日本への移住は、私の人生における新たなステージの始まりでした。札幌のイタリアンレストラン「Salon」で働きながら、少しずつ日本語を覚え、2015年には名古屋に移り、ロシア料理店「Sochi」で働き、日本でロシア料理を提供することの喜びを実感しました。
そして2019年、「Russian Kitchen Sasha」をオープンし、長年の夢を実現しました。

私の物語は、パン作りに携わり、1927年に日本の盛岡でパン屋を開いた私の曽祖父の物語と密接に絡み合っていたのです。その不思議な縁については、下記「ザジガルキン家の歴史」にて。

私はこれまでの長い道のりを誇りに思っています。私の人生は、自分を磨き、目標を達成するための絶え間ない努力の連続です。
言葉や文化が異なっても、本当に美味しいものは、国境を超えて届くと信じています。この素晴らしい国日本で、私の母国の料理の味を皆さんと分かち合えることを楽しみにしています。

ザジガルキン家の歴史 (『樺太に生きたロシア人』より抜粋)

富農絶滅を逃れて ー ザジガルキン家

1990年の初め、私(著者)はトロフィーム・ヴァシリエヴィチ・エフィーモフとともに、コルサコフ地区にあるオジョールスキー・ポショーロク(長浜)に向かった。ここには当時、サハリンの古参移民ザジガルキン一族の子孫、フョードル・ペトロヴィチが住んでいた。
 フョードル・ペトロヴィチは、1945年当時わずか9歳に過ぎなかったため、多くを語ることはできなかった。しかし彼は、父親の妹ザジガルキナ・クラーヴディヤ・エフスタフィエヴナがユジノ・サハリンスクに住んでいる、と教えてくれた。ふたりの関係者の話を引用する前に、サハリン州内務局の記録文書に当たっておこう。

Longtail boat in Thailand

富農絶滅を逃れて ー ザジガルキン家

1990年の初め、私(著者)はトロフィーム・ヴァシリエヴィチ・エフィーモフとともに、コルサコフ地区にあるオジョールスキー・ポショーロク(長浜)に向かった。ここには当時、サハリンの古参移民ザジガルキン一族の子孫、フョードル・ペトロヴィチが住んでいた。
 フョードル・ペトロヴィチは、1945年当時わずか9歳に過ぎなかったため、多くを語ることはできなかった。しかし彼は、父親の妹ザジガルキナ・クラーヴディヤ・エフスタフィエヴナがユジノ・サハリンスクに住んでいる、と教えてくれた。ふたりの関係者の話を引用する前に、サハリン州内務局の記録文書に当たっておこう。

サハリンにおけるザジガルキン一族の初代エフスターフィー・ヴラソヴィチは、1898年極東の農民の家に生まれた。十月革命の1年前に結婚した。
一家はカムチャツカ(半島)に住んでいた。半島で、子供たち、つまりピョートル、アガーフィヤ、アメーフリー、フェオドーシヤ、プラスコーヴィヤが生まれた。一家の長がリュウマチを思ったため、日本へ行って治療を受けることにした。
1925年、エフスターフィー・ヴラソヴィチは、ペトロパヴロフスクで自分と妻プラスコーヴィヤ・イサエヴナのヴィザ手続きを済ませた。
そして、この大家族は居所を離れ、北海道島の函館に住みついた。ここにはいくつかの温泉が湧き出ており、エフスターフィー・ヴラソヴィチは湯治に利用した。パンを焼き始め、市場で売って生活費を得た。
1932年、エフスターフィー・ウランヴィチは、南サハリンのある村に旧教徒の家族が住んでいる、という話を聞いた。同年、一家は樺太に移り、荒栗村の住民に加わった。
新たな土地で、ザジガルキン一家は馬1頭と雌牛1頭を買い求め、農業を営むようになった。エフスターフィー・ヴラソヴィチは、時々北海道や本州に行き商売をしていた。
長男ピョートル(1917年生れ)は、まだ独り身であった。父親は、知人の話から、東京にマクシーモフー家が住んでおり、同家に未婚の娘ダーリヤ(1915年生れ)がいると知った。1930年代の半ば、エフスターフィー・ヴラソヴィチは息子を連れて首都を訪れ、見合いをさせた。ピョートルは、妻帯者となって村に戻ってきた。

Longtail boat in Thailand

サハリンにおけるザジガルキン一族の初代エフスターフィー・ヴラソヴィチは、1898年極東の農民の家に生まれた。十月革命の1年前に結婚した。
一家はカムチャツカ(半島)に住んでいた。半島で、子供たち、つまりピョートル、アガーフィヤ、アメーフリー、フェオドーシヤ、プラスコーヴィヤが生まれた。一家の長がリュウマチを思ったため、日本へ行って治療を受けることにした。
1925年、エフスターフィー・ヴラソヴィチは、ペトロパヴロフスクで自分と妻プラスコーヴィヤ・イサエヴナのヴィザ手続きを済ませた。
そして、この大家族は居所を離れ、北海道島の函館に住みついた。ここにはいくつかの温泉が湧き出ており、エフスターフィー・ヴラソヴィチは湯治に利用した。パンを焼き始め、市場で売って生活費を得た。
1932年、エフスターフィー・ウランヴィチは、南サハリンのある村に旧教徒の家族が住んでいる、という話を聞いた。同年、一家は樺太に移り、荒栗村の住民に加わった。
新たな土地で、ザジガルキン一家は馬1頭と雌牛1頭を買い求め、農業を営むようになった。エフスターフィー・ヴラソヴィチは、時々北海道や本州に行き商売をしていた。
長男ピョートル(1917年生れ)は、まだ独り身であった。父親は、知人の話から、東京にマクシーモフー家が住んでおり、同家に未婚の娘ダーリヤ(1915年生れ)がいると知った。1930年代の半ば、エフスターフィー・ヴラソヴィチは息子を連れて首都を訪れ、見合いをさせた。ピョートルは、妻帯者となって村に戻ってきた。

ここで、彼の妻ダーリヤ・ダヴィドヴナの家族について、手短かに触れておこう。
1930年、マクシーモフの一家は富農(クラーク)絶滅を逃れ、サラートフ州から中国を経由して東京にやって来た。ここ日本の首都には、1920年からダーリヤの姉エカテリーナが、夫のシシキン・ヴァシーリー・ルキャノヴィチと住んでいたのである。シシキン夫妻は、衣料品と香水類を商っており、
ハルビン(吟)と樺太の泊居(現在のトマリ市)に店舗を構えていた。彼らは、親族が新しい土地に慣れるよう手を貸した。ダーリヤも商売を始め、ピョートル・ザジガルキンと結婚し南サハリンへ行くまで、商いに携わっていた。
1930年代の終りから 1940年代の初めにかけて、エフスターフィー・ヴラソヴィチの子供たち、アヌーフリー、フェオドーシヤ、それにプラスコーヴィヤが、満州へ移住した。1945年以降、彼らとの音信は途絶えた。
さて今度は、関係者たちが語る話の番である。


フョードル・ペトロヴィチ・ザジガルキン、1936年生れ、出生地荒村。
1994年以降、ハバロフスク地方ソールネチヌィ地区ベリョーゾヴィー村に在住。

Longtail boat in Thailand

ここで、彼の妻ダーリヤ・ダヴィドヴナの家族について、手短かに触れておこう。
1930年、マクシーモフの一家は富農(クラーク)絶滅を逃れ、サラートフ州から中国を経由して東京にやって来た。ここ日本の首都には、1920年からダーリヤの姉エカテリーナが、夫のシシキン・ヴァシーリー・ルキャノヴィチと住んでいたのである。シシキン夫妻は、衣料品と香水類を商っており、
ハルビン(吟)と樺太の泊居(現在のトマリ市)に店舗を構えていた。彼らは、親族が新しい土地に慣れるよう手を貸した。ダーリヤも商売を始め、ピョートル・ザジガルキンと結婚し南サハリンへ行くまで、商いに携わっていた。
1930年代の終りから 1940年代の初めにかけて、エフスターフィー・ヴラソヴィチの子供たち、アヌーフリー、フェオドーシヤ、それにプラスコーヴィヤが、満州へ移住した。1945年以降、彼らとの音信は途絶えた。
さて今度は、関係者たちが語る話の番である。


フョードル・ペトロヴィチ・ザジガルキン、1936年生れ、出生地荒村。
1994年以降、ハバロフスク地方ソールネチヌィ地区ベリョーゾヴィー村に在住。

数年前、エレメーイ・エフスタフィエヴィチは、母、兄ピョートル、甥たちの墓所を訪ねることにした。しかし、そこで目にしたのは開墾された土地ばかりであった・・・。
<参考文献>
セルゲイ・ペトロヴィチ・フェドルチューク著(1996)Русские на Карафуто(= 2004 板橋政樹訳『樺太に生きたロシア人-故郷と国家のはざまで-』日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」)

Longtail boat in Thailand

数年前、エレメーイ・エフスタフィエヴィチは、母、兄ピョートル、甥たちの墓所を訪ねることにした。しかし、そこで目にしたのは開墾された土地ばかりであった・・・。
<参考文献>
セルゲイ・ペトロヴィチ・フェドルチューク著(1996)Русские на Карафуто(= 2004 板橋政樹訳『樺太に生きたロシア人-故郷と国家のはざまで-』日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」)